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三条通の歴史

当店の正面の通り三条通、

三条通り


以前、この三条通りは大変賑わってたんだよと

坦々とお話をしておりおましたが、

当店のある中京区の歴史は90年ほどです。

それ以前の中京区の地域は、上京区・下京区とに分かれていました。

その境となっていたのが、この三条通だったのです。

つまり、当店のある南側は下京区で、

向かいのお薬屋さんは、上京区だったわけです。

今でこそ、四条と御池通りの間の細い通りに数えられていますが、

その昔は京都の重要な通りだったんですね。

この通りは。

旅Cafe&Diningおでかけ日和=カフェ・ダイニング+旅行会社
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テーマ: 京都からこんにちは! -  ジャンル: 地域情報
by おでかけ日和店長  at 19:35 |  京都の歴史 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

京都のそのむかしの大きさ

今日のお話は、京都の人でないと、なかなか難しお話かもしれません。



鉄道が日本中に張り巡らされたころ、

各都市の駅は、用地買収の関係から、町の外れに作られました。

その後、各都市が発達するに従い、

駅周辺が繁華街となり、

町の中心地へと変貌したところがほとんどです。

京都の町も例外ではなく、

まず、京都駅は町の南の端に作られました。

そして、現在のJR嵯峨野線が京都の西をぐるりと巡り、

二条駅まで敷かれたのです。

つまり明治のころの京都の市街地の西の端っこは、

二条駅あたりだったと言っていいでしょう。


それを証明するかのように、このような記述があるそうです。

明治の初期は、三条大宮(三条商店街の公園のあるところが)から、

夜になると嵐山(京都の西の山)の光が見えたということです。

今では、完全に町のど真ん中になってますが、

かつては、三条大宮から西には、果てしなく畑などが広がっていたということでしょうか?

今、当店は、京都の町の真ん中にありますが、

明治のころまでは、京都の端に近いところにあったということになります。

確かに、三条大宮から東側は、碁盤の目状に通りが規則正しく通っていますが、

反対に西は道路が入り組んでいるので、

区画整備がされないままに、町ができていった様子が分かります。



先日ご紹介した武信稲荷神社は、

龍馬の時代

京都の郊外にある神社だったわけです。


逆にいえば、三条大宮から東は、

すでに町が完成していた訳で、

当店のある交差点も、昔から現在の幅のままだと思われます。

今では、想像もつきませんが、

縦の通り油小路は伏見へ通じる重要な道路であり、

東西の三条通りは、江戸からの東海道の延長線上にあります。

つまり、当店のある三条油小路交差点は、

江戸時代には大変重要な交通の要所でした。

そんな交差点ですから、
近江屋吉左衛門家文書
坂本龍馬や近藤勇、土方歳三、桂小五郎などなど幕末の志士たちも、

当然、行き来していたかと思うと、

すごいですよね。

と思ってしまいます。

普段は何気なく暮らしている町ですが…




テーマ: 京都 -  ジャンル: 地域情報
by おでかけ日和店長  at 10:54 |  京都の歴史 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

三条油小路町絵図その2

工事開始前の店舗物件

昨日からの続きです。

昨日の絵図と比べてみてください。

そっくりの屋根の形。

そうあの絵図の建物そのままです!!とい言いたいところですが、

大家さんによると、同じではないということです。

さすがに築190年ともなれば、少なからず文化財級です。

私のような者が、カフェをやるからと、気軽に借りれる代物でなくなっているはずです。

ただこの建物、登記簿を調べても、大家さんにも、

建てられたのが何時なのか、分かりません。

少なくとも80年くらいは経っているだろうということです。

畳屋さん畳替え頼んでみてもらったところ、

100年ぐらいは経っている畳やねとも言われました。

謎の建物です。

少なくとも言えるのは、大家さんのご先祖様が、

この角の地で、絵図と同じような形で、

ずっと鋳物屋さんをされてきて、

現在も当店の南側で、

商売を大きくして金物を中心とした建築資材のご商売をされているということです。

そう考えると、今、車が止まって、駐車場になっているスペースは、

無理やり町家を潰して駐車場スペースにしたのではなく、

もともと商品を並べていたスペースが、ちょうど車を置くのによかった

ということなのでしょう。

つまりは、ほぼオリジナル形を保った町家といって良いのではないでしょうか?


また、190年前の建物ではないといえる、

もうひとつの理由は、

坂本竜馬や新撰組が駆け巡った幕末の動乱の時期、

1864年の禁門(蛤御門)の変により京都の町は、焼け野原になってしまいました。

この地域も被害は免れなかったようです。

今言えるのは、

少なくとも、幕末以降に建てられた建物というのは、間違いないようです。
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by おでかけ日和店長  at 00:22 |  京都の歴史 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

三条油小路町絵図その1

近江屋吉左衛門家文書

正式には近江屋吉左衛門家文書のなかの

三条油小路町の東側と西側を1巻ずつに描いた彩色画の一部です。

この三条油小路町が当店のある町内です。

そして今日、大家さんからこの絵巻物のコピーをお借りしてきました。

この角っこの建物が、当店舗の位置になります。

この絵図の描かれたのは1820年(文政3年)です。

約190年前です。

文政といえば何時でしょう??

調べてみました。

江戸時代になります。

文化→文政→天保という年号の流れで、

1818年から1829年までの期間に使われた年号です。

この時代、江戸幕府将軍は11代徳川家斉の時代。

ピンと来ないですね。

何があったかというと、

ウィキペディア(Wikipedia)によると
文政2年6月、新文字金発行。
文政3年5月、新文字銀発行。
文政13年夏~秋、阿波を中心にお蔭参り大流行。

らしいですが、ピンと来ないですね。

あまり大きな出来事が無い、

要するに平和な時代だったようですね。

その後、日本は幕末へと進んでゆく時代です。
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by おでかけ日和店長  at 23:58 |  京都の歴史 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

本能寺の変

旧本能寺碑
当店のある三条油小路(あぶらのこうじ)の交差点から、

油小路通を南に2筋下ったところにあるのが、この石碑です。

見ての通り本能寺跡と書いてあります。

本能寺といえば、そうあの明智光秀が織田信長に謀反を起した

本能寺の変の「本能寺」です。

京都を良くご存知の方は、市役所の近くに本能寺があるのをご存知でしょう。

そこに織田信長の霊廟もあります。

しかし、実際の本能寺の変の舞台になったのが、

この石碑のあるあたりなのです。

当時本能寺はこの地にあったんですねぇ~。

その後、豊臣秀吉の京都の改造が行なわれ、

その際に、本能寺は現在の場所に移転しました。

日本史の一大事件ですが、何気なくその跡があったりするのも、

古都京都ならではです。

当店に立ち寄りついで(まだ開業してませんが)に、

歴史ロマンに耽りにこの石碑を訪れられてはいかがでしょうか?




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by おでかけ日和店長  at 22:58 |  京都の歴史 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑
プロフィール

おでかけ日和店長

Author:おでかけ日和店長
京都市中京区三条油小路にて旅行相談・手配のできるカフェをオープンさせた店長。2009年11月末にOPENして、現在奮闘中。いいお店ができたなぁ~と自我自賛しています。

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